RK語録42 2011年1月のツイッターより

老親の家から帰宅。帰りのバス・電車の中で、自分がいかに臆病で捨て身になれなかったかを恥じた。見上げると、そんなことを感じさせる薄曇りだった。

 

level0とlevel1は大きく違う、の後に、肯定的に考える人と、否定的に考える人がいる。

 

自分が大成しないというマイナス点ばっかり積み上がると、欝になってくる。欠点だらけどころか、欠点しかない状態からのスタートだから、欠点がない状態は考えられず、大成ということとほど遠いのは確か。目標が変なのだ。

 

でも、今まで自分の柱になったものって、一番嫌いな事なんだぜ。一番好きな事は役に立ってないのよ。

 

あー、毒吐きすぎて、胸が痛い。吐き過ぎもだめ?

 

未病の方は、とにかく血行を良くするといいかもしれない。

 

最近、狩に勤しむ輩と戦っている。私はささやかでも結果を歴史に刻みたいのであって、記憶とともにどこかに行ってしまう快感なんて、いくら実質的な結果が優れていても無意味だと思っている。できれば自分のも人のも記録したい。

 

なんか最近も、昔の俺なんて頭良いんだろう、意味分からん、と思った。あるじゃーのんな気分だ。

 

量で押すのか、わかりやすさで押すのか。大抵この2強である。ちなみに、量で押す場合も量があることをわかりやすく示さなければならない。例えば、大きさや重量や厚さ。

 

昔安さを分かりやすく示したくて、段ボール入りのソフトウェア箱を提案したことがあるが、通らなかった。しばらくして、玄人指向というブランドが流行った。確かに値段を安くしたいとはあまり思わなかった。そこまで似ていたのに出来なかったのは私の力が足りなかったからだ。

理屈ではない。直感もあってうまく説明できないこともある。

 

マネージャーが忙しいとろくな事にならない。と平社員の頃思っていた。最近超急がしくて、やっぱりろくなことになってない。徹夜明けのような記憶力のなさは困る…

 

最近若い人をあまり見ないからかもしれないけど、年功序列なんて建前からも、どっかいった感。一回り以上年上の人とか、普通にいるし。わたしもそうやって暮らすことになるんだろうね。この多様性の世界で。

 

日本とアメリカしか比べない記事は飽きた。アメリカと違うことはみんな悪いことにされてしまうからだ。その点、韓国との比較記事はウケるのは分かるが、やはり1点比較なのは浅いと思う。

 

僕を不登校から守っていたものは、第一に隠れ家があった(成立した)こと。第二に、一人でいてもさびしくなかったほど、日常親が近かったこと。かなぁ。精神年齢は、大学時代の一人暮しで追い付いた。

 

男は日常から幸せを得る回路が「極めて」弱い。非日常・非常識がそこそこなければ壊死してしまう。文学作品を読むと、それがよくわかる。日常の幸せを喜ぶのは女性が描く男性。女性作品を読むそれ自体が少なかった頃はそれも新鮮だったが、、、

 

美術の点が学年最低点だった記憶。結論:美術は理屈っぽいやつの点が低く、要領がいいやつの点が高い。

大人には、抽象的なことを具現化するのが嫌いな人には印象画を描かないという選択肢があるが、未成年にはそれがない。

だからこそ、成績に一喜一憂するのは意味がなく、平均点より最高点の方が重要なのだ。成績に出ない部分も含めて。

でー、うまくいった印象画は、輪郭を書いて、あと薄黄色とか薄青色とかで塗りつぶされていた。

 

国内ICTが飽和することを前提として、SE的な職種を天職と考えるのはやめるか、海外への引越しを考えるか。世界的に見れば、私が死ぬまでにSE業がなくなることはないと思うし。そんなことを考えた記憶がある。SEを1年で辞めたのはいいとして、その後怠けていてなかなかうまくいかんorz

 

週休3.5日制というのが意外と受けている。残りの3.5日どうするかは自由だと思った。働きたい人ははたらいてもいいし。私はOSS活動をちゃんとやって、この時代に生きたことに感謝したい。なんてのが夢。

 

外にいる日本人は言わば外交官。きちんと情報を受け止めて反映させていくことが、内にいる日本人の役目だ。それだけでなく、内の情報を正しく伝えることも求められている。

 

行く所まで行ったって決して破滅しない。形而上にそれがあるかないか。

そういう意味では、あの事務所の主人は紙一重だった。紙一重で偉大な……詐欺師になってしまった。

あの紙一重の線上に、自分を立たせてみたい気がしない。憤りが足りないのかもしれない。

 

26歳、自分の墓を見ているころ、自分の続きは自分の後の世代が引き継ぐ・引き継がせると思っていた。でも年をとるにつれて、後の世代にという考えが薄れてきて、今は別のものという前提で考えるようになっている。この変化は何だろうな。

ひとつには、短い時間で結果を出す習慣になってきたせいかもしれない。3ヶ月以内で始めてから終了まで、みたいなことが頻繁に起きていると、人生の課題についてもやはり自分の人生の中で一区切りして、他の人が続きをするかどうかは任せるようなことが考えになってきたのかも。

 

難しいのでやめときな、と言われて素直に止めなかったケースで、本人の努力/要領次第の部分が大きいものは大抵何とかなっている。確率論の場合は大抵駄目。祈っても効果はない。