RK語録39 2010年10月のツイッターより

どうしても、結果主義になれない私。楽しいゲームでも終盤になると投げ出すのは何でだろうと思ったが、要は結果を見るのが虚しいからなんだろう。
よく学校の運動会とか、1番だろうとビリだろうとまったく関係なかった記憶。
フラグ立てとかはそんなに苦痛じゃなくなってきたので、会社での目標達成とかはいいけど。結果を出すには前提として過程が充溢していないと持ちこたえられない。
本来の目的、って何だろう。本来、をどこまで突き詰めるかによるが、最初に定義したこととずれたことをしているのは、本当はその目的を達成したくないからなのか。いや、多分バランスが悪いからだろう。

 

webサービスの品質はおしなべてwin95相当。不愉快なユーザー体験が、企業の現場でも増えていく。これを乗りきるには、アウトプットの質を落としていくしかない。そういう風に考えてしまう社会人って古いのかな。
たかだか10年ぐらい前と比べても、今は遊びと仕事の境界がさらに曖昧になってきている。タダのサービスを使って、業務が一日できなくても、平然としている神経の人がデフレ時代の勝者なのかも。
googleの過剰福祉廃止とgmailの不安定さに思う。
まあ、給料が同じなら、人は年々手抜きをするべきかもね。事業仕分けしなきゃw
田舎のサービスレベルが都会よりだいぶ低いのは、高齢化というより年取ってもちっともいいことがないから、手抜きぐらいしか幸福の達成手段がないからかな、と今日もぞんざいに扱われた私の思考。
都会は若年比率が高いから目立ちにくい。
ほんと、年取ってもいいことないや。なぜなら人の欲求には際限がないから。自分の身の程を超えてしまうと不満を解消する手段がない。
年功序列は国力には結びつかないが、欲求のバランシングには役立ってたのかもしれないね。もうないけど。
そうすれば、より高みを目指そうということで行き着いてしまった欲求限界突破は、リセットできる。つまりは、途中でゲームを降りるとは、そういうことだ。

 

中国人は行儀が悪いと言われるが、逆に押し付けがましいこともほいほい聞いてくれる。日本人のようにぶつぶつ言わない。私はそういう印象。

 

基本的に、高齢者の生活レベルを下げようとするような施策は一貫して眉唾だった。自分が働いた分を将来取り返せない運動に積極的に参画するかということ。自分で老後を担保することを考えると、気が重くなる。
所得の再配分に懐疑的だったバブル期が懐かしい。今では再配分を平等かつ強力に推進するBIなんかがおもしろく感じるが、あれは古代ローマを連想してしまうのだが。どこが違うのかな。

 

エキスパートとジェネラリストのバランス。引く手あまたなのは前者なのは間違いない。後者が前者を引き止めて結果を出していくという仕組みだから、多くても少なくてもいけない。まあ、元エキスパートなら、たまには出戻ってもいいかも。そういう仕組みが会社に普通にあればね。
もちろん、それが会社において普通であろうがなかろうが、自分としてどうなのかで決めるというのもあり。そういう意思決定には超会社的つながり(コミュニティつながり)が支えになると思う。

 

ふー。不思議な生活じゃなくて、妙な生活をしたい。…何か老いる自信がなくなった。普通すぎる。
それとも私は変人ではない普通じゃない老人になれるだろうか。